乳幼児の子育て

子育ての最終責任問題について

シングルマザー(ファザー)なら、子どもを育てる責任者は当然母親(父親)。
1人で子育てを担うのは、なかなかに大変ですが、責任の所在がはっきりしているという点では、スッキリサッパリしています。

カップルは、ふたりいるからややこしい。

父親と母親の二人で子育てしている場合、なぜか、どうしても、なんとなく、とくにその件について言語化しないまま、おたがい、母親が子育ての最終責任者的な認識でいるような気がするんですよねー。

mami
mami
同性カップルの場合はどうなんだろう?

この子育ての最終責任問題って、多くの母親が、とくに働く母親がモヤッとしているにも関わらず、今まで言語化されてきていないように思うのです。

というわけで、今回はこの問題を取り上げます。

オトナなパパとお子ちゃまパパ

このサイト内お子ちゃまパパ問題解決法の中で、世の中には、オトナなパパお子ちゃまパパがいるとブンセキしました。

簡単に言うと、オトナなパパとは、ママのしんどさを理解し労り、子育てを共に担う父親。
お子ちゃまパパは、子育てをママに任せて、自分のしたいことを優先してしまう父親です。

イクメンだからオトナなパパというわけではないんですよ。

ママと助け合う育児をするのがオトナなパパ。自分がやってみたいから育児しているなら、お子ちゃまパパの要素があるかもしれません。

お子ちゃまパパ問題については、上記の記事でなんとか知恵を絞りました。一方、右のイラストのようなオトナなパパは、なーんも問題ないじゃない。といわれがち。

でも、どんなに素晴らしいオトナなパパであっても、いや、子育てに協力的なオトナなパパだからこそ、子育ての最終責任問題が、なかなかに悩ましいのですよ……。

子育ての最終責任問題って?もっと詳しく

そもそも、前述したように、子育ての最終責任問題なんて言葉はありません。
このことを語るために、私が創りました。

わかりやすく言うと、
子どもが泣きやまないとき、最後の最後まで諦めず抱き続けるのは、なんとなく母親。
共働きで、子どものお迎えにどちらもいけないとき、最終的に折れて迎えに行くのは、母親。
そういう感じ。

mami
mami
わかってますー。もちろん、どんなことでも例外はあるし、マイノリティはいますから、「それには当てはまらない場合もある」とかツっこまないで、ざっくり聞いててねー

こんなふうに具体的に「これ!」と言えないまでも、なんとなく、「結局、子育てに参加しているとか、一緒に育てているとか言ってっけど、最終的には私が子どもの最終責任者だと思っているなアイツは」と母親が感じるとき、そこに子育ての最終責任問題は、存在します。

father1
father1
俺出来ないから、お前やっとけよ

というようなお子ちゃまパパなら、もうあからさまに最終どころか、子育てを全部母親に任せてしまっているので、腹立たしいけどわかりやすい。
ところが、

father2
father2
大丈夫? 手伝おうか。 お迎えも行けるよ。

という優しいパパでも、あくまで子育ては母親のもので、自分は手伝っているだけ、と心の底で思っていたりするのです。
もっといえば、

father3
father3
子育て二人で頑張っていこうね!

というイクメン中のイクメンであっても、不思議なことに、本人も気づかない深層心理に子育ての最終責任は母親と刷りこまれていることが、ほんの些細な言動で露見したりします。

とくに、イクメン度が高ければ高いほど、母親はモヤッとしてしまう。

だって、お子ちゃまパパには、

mother1
mother1
ホンットなんにもしないんだから頭来ちゃう!

と正々堂々、不平を言えるけれど、
オトナなパパには、

mother2
mother2
普段十分やってもらっているから、こんなこと思うのって、ぜいたくなのかなあ

って口ごもっちゃう。

mami
mami
「やってもらっている」って思う時点で、母親の方にも、子育ては母親がするものっていう既成概念があるんですよねー。
mami
mami
それから、周囲の人は絶対、「あんないいダンナさんなのに、何の文句があるの?」って言うんだよなー。(実話)

このえもいわれぬ母親たちのモヤッと感こそ、子育ての最終責任問題なのです。

せめてこの問題を共有しようと思う

実は、ほかでもない私が、長いこと、このモヤッと感を抱えつつ、わかってもらえることはないだろうと思っていました。
ところが、あるお母さんと話していた時に、初めてこのモヤッと感に言及したら、ものすごい共感が返ってきてびっくり。
そこで、これはもう、きっとこれは私たちだけじゃない母親共通の問題だと察知し、こうしてウエブ上に書いておき、後進たちの目に触れることを願おうと相成りました。

日常のほんのちょっとしたエピソード。はたから見れば取るに足らないできごと。
それらから、敏感に、「結局は、最終的には母親に任せて、究極的には子育てに無責任でいられるんだな父親は……」と感じてえもいわれぬモヤッと感を感じた経験のある母親は、実は、少なからずいる。

私は、母親達がこの事実を共有するだけでも、だいぶ前進できると思っています。

だって、どんな問題でも、同じ問題を抱えている人がいるという事実だけで、それを語り合える人がいるだけで、なんだか心が軽くなりませんか。

母親が感じる「モヤッと感」の後ろ側にあるもの

もしも子育てが楽しくて仕方のないことばかりなら、
子どもが泣いても、公園で木登りしても、道端で遊んでも、マンションで足音を立てても、笑って許してもらえるのなら、
子どもは社会の財産というコンセンサスがあるのなら、
親は将来のタックスペイヤーを産んだ殊勲者と言ってくれるなら、
子育ては母親だけでなく、親や祖父母や、親戚やあるいはコミュニティ全体が関わってするものなら、

母親は、「父親が最終責任を持とうとしない」とか、そういうことでモヤッとなんかしないのでしょうか。

一人の子どもを育てるには村中の力が必要

というアフリカの諺があります。

けれど現実には、少なくともこの日本では、親が子育てをするのが常識になっています。
そしてなかでも母親が子育てを担うという暗黙の了解がある。
本来、村中ですることを、親だけでやればそれはしんどいに決まっています。
親自身も、長いこと親が子育てするもの、母親が子育ての主役という空気の中に浸かってきたから、
なかなか、子育てはコミュニティ全体でするものとは思えない。母親自身が、親が子育てを担うべきなのだと信じ切っている。

この背景をもって、せめて、同じ親である父親に、同じ責任者の立場にいてほしい。このしんどさを芯から分かち合ってほしいのに、それが叶わない現実を、時折見せつけられる。

大げさに言ったら、母親のモヤッと感の正体は、そんな感じなのかなあと思います。

つまり、そもそも、子育てしにくい世の中が、問題なんだ!
mami
mami
私が子育て支援に足を踏み入れた30年前から、ずいぶん子育てリソースは増えたけど、根っこのところはまだまだ変わってないもんな……。