教育大学を優秀な成績で卒業した、仕事がデキて人としても愛すべき、私の若い同僚が言いました。
そーいえば、我が子が小中高校生だった頃、私も何度も何度も嘘つかれたよな……。
だいぶ見破ったけど、それでも、おそらく親が気づかなかった嘘もあるんだろうな……。
……おそろしい。
でも、そうなんです。
子どもは基本、嘘をつく。そりゃごくたまに、まったく嘘と無縁の子もいるかもしれないけれど、大なり小なり、子どもというイキモノは嘘をつくのがデフォルト。
このことを知っていると知らないとでは、子ども観が違ってきます。
怒られたくないから嘘をつく
子どもが嘘をつく理由は、ものすごくシンプル。
怒られたくないから。
これに尽きます。
子どもは、怒られないためには、全力で嘘でもなんでも動員します。
大人は、
って言うけど、その甘言に転んでホントのことを言ったりしたが最後、約束はどこかへ葬られ、大人は必ず怒るから、ますます、嘘をつくようになるんですよね。ホントのことなんか言わなきゃよかったと後悔して、次回は嘘を貫き通すわけです。
もし、こんな経験がなかったとしても、とにかく、子どもは怒られないためには、嘘の一つや二つはつくものです。
子ども論理では嘘じゃなかったりする
面白いのは、大人から見たら
ということを、子どもは
と言い張ることがよくあること。
このからくりは面白くて、
たとえば
親「いつもやっているでしょ?」
子「やってない」
親「嘘つかないの!」
子「嘘じゃないもん!」
なんて応酬のケースでは。
親は「いつも」という言葉を「たいてい」「だいたい」という意味で使っていて
子どもは「いつも」というのは「毎日必ず」という意味だと意図的に解釈しているんですよね。
ほんとうは、親が「いつも」というのは「たいてい」「だいたい」という意味で使っているのをアタマのどこかでわかっているのだけれど、自分を守るために「いつも」というのは「毎日必ず」という意味だという解釈を選んで、「昨日と三日前はやらなかったから、「いつも」やっているわけじゃないから、「やってない」は嘘じゃない、というわけです。
子どもは、このテの論理で自分を納得させて、「嘘じゃない」と言い張るパターンは得意です。
あー、大人もそうでしたっけ笑。
こういう場合は、
「やっていない日もあるかもしれないけれど、やった日もあるよね?」
と具体的に責めると、
「昨日はやってないよ!」
となり、
「おとといは?」
「やった」
と白状させることができます笑。
嘘に罪悪感はあまりない
子どもの嘘は自分を守るための武器のような感覚で、罪悪感はあまりないようです。
大人たちは、「嘘をつく」なんて倫理的に許されないこと、と憤りますが、子どもはそれほど罪悪感は持っていないのです。
怒られないなら嘘はつかない
子どもを嘘つきにしたくないなら、怒らないことです。
とはいえ、
と、親としては思うわけです。
そこで、嘘を見破りたい親と、嘘を貫きたい子の攻防が、せめぎ合います。
でも、子どもの嘘は微妙で巧妙。しかも全力で隠しますから、なかなか見破るのは難しい。
もう私は、すべての嘘を見破ることはとうの昔に諦めました。
でも悔しいから
と時折吠えておりました。
我が家の子どもたちは3人とも、長い子ども時代を通じて、ずっと正直者ではなかったけれど、
親のほうも、彼らの嘘を鋭く見破り、是正することはできなかったけれども、
そうこうしているうちに時が過ぎ、
今では、子どもたちは3人ともそれなりにフツウの大人になりました。
まあだから、そんなもんだと思って気楽にやりましょう。
嘘をつくのは小さな過失
怒られないための小さな嘘に目くじらをたてるより、その子の人生そのものが嘘じゃなけりゃいい。
そのくらいの大きなスケールで嘘をとらえるというアイデアもあります。
とりあえず、私は我が家のトイレに、こんな張り紙をしています。
嘘をつくのは小さな過失。嘘を生きるのは大きな不幸。本当に危険なのは、嘘を生きる親である。
これは、他のサイトでも何度か登場している、私の大好きな100年前のイギリスの教育家、二イルの言葉。
ちょっとドキッとさせられますね。