子育てする前に

「あーしろ」「こーしろ」「なにがいい」って、もう、みんな うるせーッ!

<期間限定投稿>

中村哲先生(ペシャワール会)をしのぶ会に参加して、ちょっと高揚しています。先生は長い時間をかけて、祖国から遠く離れた場所で、その土地の庶民の平和を阻むものと長年闘い続けたのに、最期は凶弾に…。歴史に残る偉人だと思います。
先生は繰り返しおっしゃっていたそうです。

生まれた国で普通に暮らす。それが幸せ

中村先生の偉業を前に、「私は安全な日本で、読む方の数も多くないのに、誰も傷つけることのないよう、配慮して投稿をしていたな。もっと闘わなくては。」「この国の大人たちは、シンプルな幸せが当たり前すぎて、なんかいろいろ乗っけすぎて、贅沢なこと言ってたよな。」そういう気持ちで書いているので、今回はちょっと攻撃的です。でも、基本ポリシーとしては、それぞれの人がそれぞれの考えで生きていることを、私の狭い料簡だけで批判するのは間違いだと思っているので、高揚が醒めたら、そーっとこの投稿を消してしまうと思います。

本当は、どうしたらどうなるか、なんてだれも知らない

そもそも、オトナたちが、自分たちの力で教育をどうにかできるって、その前提から始まっているから、うじゃうじゃ大量にいろんなものが出回っている。
提供している方も、それを享受している方も同じ。

教育論とかも、私を含めて、結局は「こう考えてる自分スゴイでしょ」っていう自己顕示欲が見え隠れする。

いらない。
もうぜんぶいらない。

「教育においては、たった一つの解決策があるばかりだ。それは、私たち大人には、教育がなんであるかがわかっていないと正直に認めること、つまり私たちには、子どもがどのような方向に進むのかわかっていないのだから、なにが子どもにとって最善なのかわかっていない、と告白することである」A.S.二イル(堀真一郎訳)

これは100年前に書かれた言葉。
なのにいまだに「あーしろ」「こーしろ」「なにがいい」って、もう、みんな うるせーッ!

いろいろあるから、「あーこれもやらなくちゃ」「それをさせてやれない」「これを選ばなかった」「うちの子に合っているのはどれ」って、親が悩む羽目になる。

早期教育でもなんでも、いろんなサイトに、ものすごい美辞麗句がよく並んでいるけど。
結局カネがなくちゃアクセスできないものがほとんど。
だけどさ、その教育がとても素晴らしくて、遍く広めたいと言うなら、カネなんかとるなよ!
その教育を広めたいなら、自分は手弁当で、世の中には、「子どもの未来を真剣に考えている」と表明している大人がうじゃうじゃいるんだから、その人たちからファンドレージングして経費を賄えばいいじゃない。
親の心理につけこんで、金もうけするのはやめてくれ。

私は、持っているお金の多寡で受けられるかどうか決まる教育とは、ぜったい、別のところで生きていく。

人間はみんな同じじゃない

だからといって、最終的に東大とか出て出世した人たちが、「私が子どもの頃は、野山を駆け回って遊んでばかりいた」って言うのもむかつく。

あなたたちには、持って生まれたIQ の高さがある。モチベーションの高さだって遺伝の影響があると私は思う。
高いIQと努力できる性格生まれながら持ち、すくすく育って、成功した経験を、凡人にあてはめないでほしい。

私は小学校教員として、できない子には、その学年で学ぶべき、最低限の読み書きそろばんスキルは身につけさせたい。
それをしないと、いま、現実に、次の学年で、子どもはできないことの劣等感と直面して、自己肯定感をそいでしまう。(子どもは「できる方がいい」という世の中の価値観をもう自分の中に取り込んでしまっているから。ほんとはそこから崩したい)
(できなくても平気でいられるツワモノなら、ほっといていい。そんな子だから、そもそも成功できるのだ。)

飛び級できればいいとか、年齢で学年を区切らず、外国のように自分で学ぶ学年を選択できるようにするべきとか、そんなの、現実になるまえに、私の目の前の子どもは、次の学年に進む。

AI時代がどーのとか、求められる人材が変わるとか、いろいろ言ってっけど、それが凡人の隅々まで行きわたるには、たぶんまだ時間がかかる。

できる子はいい。どうなったってどこかでリカバーできる。
最低限、力の弱い子が、損をしないようにはしておいてやりたい。

だけど、最低限を超えて、子どものIQを無視して、学校的価値観における高みを望む風潮は、反吐が出るほどいやだ。

人生は毎日の暮らしの連続だから

学校や世間の価値観の高みを目指すと、美しい都会のビルの中で、言葉やコンピュータにまみれて生活することになる。中には飛行機で世界を飛び回る人もいる。そしてバカンスで自然に触れてたりもして。

昭和生まれの私はそれが良いこと、成功、羨ましいことだとずっと思ってきた。

でも気づいたんだ。

人生って、本当は、毎日の積み重ねでしかない。

テレビで見た海女さんたちは、毎日仲間とともに海に潜り、その恵みで人を幸せにし、自分達も幸せに暮らしていた。

どっちの人生を選ぶって言われたら、私は迷わず毎日海で漁をする方を選ぶ。

だが、気づいたのが遅すぎた。もう若くない。私は、すでに学校的価値観の方向性の中で長い間生きてきてしまった。
子どもだった私は、学校に適応できる能力があったせいで、言葉を使わない職業という選択肢が見えない、狭い視野しか持てなかった。あのころのオトナはみんな、優等生だった私を褒めていたから、私は、自分の視野の狭さに気づけなかったのだ。
あーあ、毎日海に潜る人生だったらよかったのにな。

せめて、教員になれてよかった。
「子ども」は、都会に残る最後の自然。

子どもに任せよう

なにがいいかなんてわからない。
なにに出会うかも演出しきれるもんじゃない。

もう、子どもに余計なことなにもしなくていい。

最低限の親がすべきことは「余計なこと」ではありません。念のため。

子どもにまかせればうまくいく。
うまくいかなくても子どもの責任。

そもそも、うまくいくばかりの人生じゃつまらない。

どうなるかわからなくても、
子どもの行く末を子どもに任せよう。
せめてオトナの浅知恵をふりまわすのはやめよう。

子どもには、学校だけでいい。
”子どもに教えたい”オトナの抑えきれない欲求を満たす場所は、ここだけでいい。
あとは自由にしてあげよう。
子どもを放免してあげよう。
学校に行きたくない?
そんなら行かなくていい!
楽しくないなら、学校だって行かなくてもいい。

行きたい楽しい場所になるようがんばってみるけどね。
子どもになにかアクションしたい人は、みんな学校へおいで。
ここで一緒にやろう。
ただしカネは払えないですよー。
または教員になってねー。

一見矛盾するこの一連の主張を、どれだけわかってもらえるのだろうか?!

追記

子どもの特性によっては、自由ではなく構造化が効果的な場合もあると知りました。
やっぱり総論語りは危ういな。