大都市以外では、国立や私立の義務教育学校(小中学校のことです)はないところが多いから、迷うことなく、地域の公立校に行くのが普通だと思いますが。
大都市圏にいると、国立や私立の小中学校があって、なんだかそこに行くと素晴らしそうな、地元の公立小中学校に行くより上等なような、そんなイメージがあるんですよね。
だから、国立大学付属の小学校、私立のブランド小学校に合格するためのお受験産業もあるし、小学生向け受験塾もあるし、親たちも、そこそこ生活に余裕があると「受験させてみようかな」なんてつい思っちゃったり。
最近では、望ましいスタイルの教育を求めて、田舎町に私立学校が設立され、その私立学校のある地方に、大都市などにいた人が家族ぐるみで引っ越すケースも出てきました。
でも、全国の国立私立の小学校の数は1%、中学校の数は約1割。
ってことは、つまり、「国立や私立の方が公立よりいいとこ」的な漠然としたイメージによって、残り約9割を占める公立育ちの人々は、なんとなく、ちょぴっとだけつまんない気持ちにさせられているっていう側面もあると思うのす。
これは、高校・大学の、偏差値の高い学校出身者とそうでない大多数の人達というくくりでも、同じことが言えると思います。
アホらしい。
一定のイメージを受け入れることで、たくさんの人がつまんない気持ちにさせられているなんて………。
というわけで、今回は、「国立私立の義務教育学校のほうが地域の公立より上等」という世間に漂う漠然としたイメージに、ひとり抗ってみようと思います。。。
どちらが上ということではなく、違いがあるだけ。
そう考えるためには、今のイメージ上の上下関係(?)を覆すだけの公立のイメージアップが必要だと思うので、それに挑戦してみます。
(みすず書房・神谷美恵子コレクション「遍歴」より。聖心女子、ルソー教育研究所付属小学校(しかも校長はピアジェ)、自由学園、スイス国際学校等の国内外での華々しい学校歴を持つ神谷さんが、その合間に僅かに通った公立小学校について綴った文章。)
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問題は学校選びじゃない
そもそも、以前書いたように、子どもの生活に占める学校時間は、たった約27%(部活除く)なのですよ。寝る時間も計算に入れたら、なんとたった約16%。
だとしたら、"子どものため"には、学校以外の73%(84%)の生活に注目して、こっちのクオリティを上げるほうが、学校にこだわるより、効果的なんじゃあないだろうか、と思うのですが。
こういうことを言うと、「だから親がちゃんと」って話になっちゃうんだけど、そういうことではありません。子どもは本来社会で育てるもの。親は、地域や親類縁者のたくさんのバックアップがあってこそ、子育てができるのに、時代の変化に伴って、親と学校以外の地域リソースがなくなってしまった状況がそのままとりおかれていることが問題なんです。子育てにおいて、学校選びに比べて、こっちの課題の注目度って少ないよなーって思います。
子どもにとって必要なのは、地域リソースだけじゃありません。子どもが切実に求めるのは、友達。
子どもの、学校以外の73%(84%)の生活において、友達の存在は大きいんです。
学校が終わった後、学校がない日に、すぐ近所の公園で友達と遊べる。気軽に友達の家を行き来できる。小さい頃は特に、そんな当たり前の毎日こそかけがえのない日々。
公立学校を選べば、それは保証されます。遠くの学校へ行ってしまうと、放課後は、通学に費やされるし、帰ったら近くに友達がいないということになります。
まあ、子どものことだから、たとえ遠くの学校に行かされても、それなりに逞しく楽しみを見つけ出すのでしょうけど………。
公立でダイバーシティを学ぼう
気を取り直して、純粋に公立のいいところを考えていきます。
まず、公立に行くと、環境そのものが学びを産む点は、大きな長所だと思います。
どんな子も受け入れる公立校には、外国籍、障害、貧困、裕福などいろんな子どもがいます。
だから、結果的に、子ども達は毎日、異なる存在と過ごしてダイバーシティを肌で感じ、価値観の違う者同士でコミュニケーションをすることになります。
つまり、公立には、通うだけで、オトナたちが今日的課題と口を揃える、ダイバーシティとコミュニケーションについて学べる環境があるのです。
公立学校はコスパ最強
英語教育が導入されたり、コンピュータの1人1端末所持がスタートしたり(2021年現在・一斉導入には懸念があるという声もありますし、これが充実と呼べるかは未知数ですが)、公立学校における教育リソースは、どんどん充実に向かっています。
音楽室、体育館等の基本的リソースは既に充分だし、私立に比べて多少見劣りすることはあっても、施設に雲泥の差があるとは思えません。
公立校の費用は、ほぼ税金で賄われるので、自分の懐を痛めなくても、十分な教育が提供されます。さらに、特別支援教育クラスなら、超少人数学級で丁寧に見てもらえるし(この制度に関しては賛否両論ありますし、私も言いたいことはありますがそれはまたの機会に)、スクールカウンセラーが導入された今では、個人で受けたら高額なカウンセリングも、無料で受けられます。
家族のお財布的には、公立学校はコスパ最強と言えるのです。
「公立学校は旧態依然」はほんとうか
お金をかけたり、遠くまで通わせたり、あるいは引っ越してまで、子どもを特別な学校に行かせようとするのは、地域の公立学校では望めない教育が受けられる、と信じているから。
でも、本当にそうなのでしょうか。
特別な学校ならいじめ問題と無縁というわけではありません。残念ながらいじめはどこにでも起こり得ます。国立私立でも、公立でも。
公立校に優れた教育がないというわけでもないです。
「教科書通りの」というのは、四角四面で融通が利かないことの代名詞だけれど、そして、公立はそういう教育をするところ、と信じられているようだけれど。
皆がイメージするよりずっと、今の公立はいろいろな工夫をして、子どもが楽しく学習できるよう努力しています。優れた教師もいます。
国立私立校の伝統ある有名な学校名とか、新しい学校の理想的な教育理念とか、至れり尽くせりの施設環境とか、そういうのに目が眩まずに、シンプルに子どもの活動だけに注目したら、意外と大きな差はないんじゃないかと…。
公立学校は誰でも行ける
どんなに素晴らしい教育実践であっても、現行制度においては、それが選別と排除の上に成り立っているのが、国立・私立の宿命。
私も、私なりにずっと教育のことを考えてきたから、教育の専門家たちが、理想的な教育の実現を目指すには、私立学校の運営しかないという結論に行き着く気持ちは、すごくわかります。
親としても、自分の子には、小さい頃から理想的な教育を受けさせたいという気持ち、私の中にも強くあったし。
それでも、いやそれだからこそ、私はどうしても、このことを看過することができないのです。
募集要項で散々私ら親の心を煽っておいて、入り口に来たら選別する。それを見て「ははーん、私立学校の学校説明に謳われる、設立の熱い想い、眩しい教育目標、豊かな教育実践の対象として、幾度も登場する「子ども」という言葉は、実は「(選んだ)子ども」なんだね」と冷ややかな目を向けてしまう、意地悪な私がいるのです。
けれど、義務教育がすべて無償になっても、一つの学校に希望する人が多ければ、入学試験問題は残ります。そうなると、今度は、公立私立の差なく、みんながお受験する世界になる?! そういえば、すでに東京では、公立中高一貫校受験があるし、公立小・中でも、地域の公立学校制度で進学先選択が可能な場合には、抽選によって望む学校に行けるかどうかが決まります。……試験ではなく抽選なら問題ないのか?
国立に対しては、また違ったアイデアがあります。
それは、優秀な教員が集められている国立なんだから、難しい入学試験をクリアした子ではなく、指導が困難な児童の教育にあたったらどうかというアイデアです。それが一番難しい教育実践だと思うから、その方が研究機関としても有意義なんじゃないかって思うのです。それに、将来社会的立場を持つようになる人を早くから国立に集めず、彼等には地域の公立にいてダイバーシティを学んでほしい。(本来の、社会貢献する優秀な人材としての意味での)エリート教育機関は、国立義務教育校じゃなくて、高校と大学で十分ではないかと思いますし。この説にはいろいろつっこみどころがあると言われたけど、ひとつのアイデアとして書いておきます。
そうそう、そもそも言いたかったのは、国立や私立にない公立のいいところは、いつでも誰でも入れるところ!ってこと。
当たり前すぎて意外と意識されていないけれど、これはとてつもない公立の長所だと思うのです。
そう、公立は誰も拒まないのです。
たとえば、公立が合わないから私立校に転校というのはハードルが高いと思うけど、私立に進学して、途中で合わなくなった場合、義務教育なら、無条件で公立に転校することはできる。
この公立の持つ受け皿としての絶対性は、評価されていいと思うんです。
極端な話、目の前に子どもがいれば、たとえ無戸籍であったとしても、公立はその子を受け入れます(例 旭川市立日章小学校はかつて、無国籍の、後に名投手となるスタルヒンを就学させました。今でも同様のケースがあれば、公立学校は同じ選択をすると思う)。
公立の持つ、こういう優しさは、もっと自慢していいと思うのです。
もちろん、「(日本の)学校」の持つ、ハードソフト両面にある諸々の不完全さや内包する問題、そして私たちを覆う学校絶対主義は悩ましくて、公立もその問題から自由でなんかないのは確かです。むしろ公立のほうが問題が多いかもしれない。公立の地位向上を目指すあまり、公立の持つネガティブさに目をつぶっちゃだめですよね。だけど、それも、入り口で誰もを受け入れるからこそ、生まれる問題とも言えるわけで。
大前提として、誰に対しても開放されているのは、すごいことだと思います。
国の制度でも、不登校の子どもがどんな学習形態を選んでも、出席扱いにするとなっているし。でも、心理的には、なかなかそうは割り切れない。
だからこそ、「誰にとっても学校を楽しい場所にしたい」というのが私の見果てぬ夢なんだな…
親はいつも惑わされている
子育てのあらゆる場面で、お金に代えられないとか、子どものためにとか、そういう美しい言葉に惑わされ、親は、たえず右往左往させられているんじゃないかって、最近、疑いはじめています。
子育てしていると、実世界でもネットの世界でも、シャワーのように、「子どもを想う」と称する大人たちのアドバイスが降ってきて、今すぐ自分の子育てを改善しなければ、新しい考え方の何かを取り入れなければ、ってそわそわしてしまう。だって、どれもこの上なく美しく理想的で、しかもなんとなく漠然と不安に思っているところを巧みに突き刺す言葉ばかりなんだもの。
お受験だってそう。
子どもをよく育てたいと願う親が、公立に行かせるのは、貴重な子ども時代を大切に考えていないような、受験を考えるのが正しい親のあり方のような、そんな気持ちにさせられる。
実は私も二イルの大ファンだったから、その思想を受け継いだきのくに子どもの村学園に自分の子どもを入れたいと思っていたんです。
近所には国立の付属小学校があったから、正直、そこに挑戦しようかという食指も動きました。
中学受験をさせることだって、考えなかったわけじゃない。
でも、私はそのとき、
「地域でともに学ぶ近所の友だちと遊ぶ日常」って、子どもにとって、大人が想像するよりもっとだいじなんじゃないか?
国立や私立での義務教育を望む理由は「子どもに良い教育を受けさせたい」という、一見、素朴で自然な親の願い。でも、これを深く深く、もっと深く厳しく掘り下げていくと、「自分の子が、他の子より良い思いをしてほしい」というエゴに行き着いてしまうんじゃないか?
家族支援者として日常生活支援サポートハウスのような、だれも排除しない居場所の実践に心酔しているのに、自分の子どもは選ばれた子しか行けない場所を目指すなんて、自己矛盾じゃないか!
そう思ってやせ我慢しました。
(やせ我慢する時点で、私も国立私立上等イメージに毒されているのがわかりますね。あるいは、エゴが本心と言えるのかも)
そっからもう、公立一択!
どうせ高校は受験しなくちゃいけないんだから、うちの子達は中学までは受験など考えず、地元の公立にしようと決めました。
(実際には、決めるまでもなく、そもそも本人達に受験ニーズがなかったんですけどね笑)
親を惑わせるさまざまな事象に腹を立てているのに、結局、こんなふうに自分の結論を堂々と書いたら、それはそれで、私立を選ぶ人を悩ませてしまうかもしれません。
かといって、そこに触れなかったら、「で、お前はどーなんだよ?」って思われそう。
と悩んで、私の親としての体験をカミングアウトしました。
親の悩みを減らしたいのに、結局私まで、親を惑わせてしまっているかなあ。
どちらが上ということではなく、違いがあるだけ
ただ、なんとなく下に見られている公立のイメージアップして、国立私立と肩を並べさせ、公立出身者や公立に子どもを通わせている人の”なんとなくつまらない気持ち”を払拭するだけのはずが、結果的にいろいろ考えさせられました。
私は、公立が好きなんですよね。
それはなぜかというと、だれもこばまないから。
にもかかわらず、現状、国立私立より下に置かれているイメージがあるのが悔しくて、どちらか上ということではなく、違いがあるだけと最初に言っておきながら、最初の原稿では公立礼賛の度が過ぎてしまっていたので、大幅修正しました。
基本的なシステムとしては、公立はたしかに誰もこばまないけれど、現実には、公立もいろいろな問題を内包していて、その点では、こばまれている人もいると言えるんじゃないか。
国立私立と公立は、違いがあるだけのはずが、公立が誰もこばまないから良くて、国立・私立はこばむから悪いという構図になっていないか。
そんなところが検証できていなかったから、最初の原稿を書き終わった時に、
という気持ちにさいなまれたんだなーと思います。
書き直してみて、その気持ちはなくなりました。
私の書いたものにわざわざアドバイスや感想をくださった方に感謝しつつ、
不完全ではありますが、とりあえず第二稿を終わります。
読んでくださってありがとう。